映画『パターソン』のこと(その4)――チャーミングな妻ローラ、そして世界

 

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映画レビューを定期的に書いているもうひとつのブログ「ソトブログ」の方で、上記のとおりある程度まとまった文章を書いたので、もう『パターソン』についてはいいだろう? と自分でも思わなくもないけれど、少し書き足りない、言い落としたという気持ちがなくはない。それだけ汲めども尽きぬ魅力がある作品ではある。

 

と同時に、私の書き方の問題でもある。「ソトブログ」で書いている映画レビューは、書くからには「読まれたい」という、若干の射幸心(それ自体がいけないことだとは思っていない)から、便宜的に一般的に、映画「レビュー」としているけれど、書いているときの気持ちというかつもりとしては、「その映画について考えたことと」「その映画をきっかけにして考えたこと」を、できるだけクリアカットに分けることなく、そして論理的に整理せずに、書こうと思っている。もとともと論理的に書く知識も技量もないことはもちろんだけれど、映画に限らず作品に接するときに、自分の手持ちのカードで整理、説明し尽くしてしまったら、その作品から得るものが、結局それを観ている私のサイズを超えるものではなくなってしまう。そんなにつまらないことはない。

 

一般的に、難しいことをわかり易く、わかり易いことはもっとわかり易く、――そんなふうに伝えることが「良いこと」だと思われているけれど、作品を享受することによってクリアにならない「引っかかり」が受け手のなかに生まれること、何かわからないものを考え続けてしまうこと、ほど豊かなことはない。今ふうに「コスパが良い」とさえ言えると思う。

 

『パターソン』のなかでは、身ぎれいにしていて自分なりのこだわりもあるのだろうけど、コンサバというより地味な装いをして、詩作についてもテクニックや修辞的に衒うところのない作風のパターソンに対して、イラン人女優ゴルシフテ・ファラハニが演じる妻・ローラは、独特のセンスの持ち主だ。壁紙やカーテンなどのインテリアから衣服、あるいは通販で購入したギターまでもモノトーンの幾何学模様で統一したり、変わった食材を使った「秘密のディナーパイ」(パターソンが水をがぶ飲みしながらそれを食すシーンの可笑しみ!)やこちらもモノトーンのカップケーキなど。そして前述の通販で買った、有名ミュージシャンモデルのアコースティックギターで「線路はつづくよどこまでも」をたどたどしく歌う彼女は「カントリー歌手」になりたいのだという。

 

ひょっとすると最近はそうでもないのかもしれないが、カントリー・ミュージックというとアメリカ南部、ワーキングクラスの白人のための音楽であって、ファッションも出自もローラに似つかわしいものとは言えない。ローラという女性は、あらゆる点でそうした文化的なコンテクストを踏み外した人物であって、見方によっては「困った人」としても描かれうるタイプだが、『パターソン』においてはそれは、彼女にとっての、そしてパターソンにとっての「チャーミングさ」の範疇に留まっている。否、というよりそのような彼女の常識に囚われない、しかし幾分紋切り型でわかりやすい「個性」(彼女は通販番組で見た有名ミュージシャンが、自らギターを販売しているとさえ思っているふしがある)こそが、おそらくは自らは起伏を好まないパターソンの日常を彩っている。

 

あるいは彼女は、セルアウトを恐れる芸術家肌のパターソンを、「崇高な芸術」に浮き足立たせることなく、日常の美しさ、愉しさに留まらせてくれる、市井の詩人=何者でもない者であるパターソンにとっての、理想の伴侶なのかも。

 

そういうふうに見るとこのパターソンの妻のローラという女性は、理想化された人物に見える。そう見えると、一見地味なリアリズムに見えるこの映画の世界は、偶然とはいえない頻度で出てくる双子たちの例を出すまでもなく、パターソンや、パターソンが憧れる詩人たちの書く詩のような、現実を再構築して美しく組み上げたひとつの芸術作品のようだ。そしてそれこそが、現実の人物と風景(メイクを施していたりセットとして組み上げられたとしても、そこに実在するもの)を撮影して撮られたものとしての、映画そのものだということだろう。

 

 

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映画『パターソン』のこと(その3)――『パターソン』と『静かなる情熱 エミリ・ディキンスン』あるいは、凡庸に生きる<不幸>と<幸せ>。

 

『パターソン』を観た流れで、『静かなる情熱 エミリ・ディキンスン』(2016)を観た。

 

『パターソン』でパターソンが出会う、双子の片割れの詩を書く女の子。彼女の敬愛する詩人がエミリ・ディキンスンなのだ。『パターソン』という映画は、バス運転手であるパターソンが、決まった時間に起きて仕事に通い、休み時間に詩を書いて、美しい妻の誂える変わった料理を食し、犬の散歩をしていつものバーで飲んで帰る、文字通り“判で押したよう”な一週間を描く映画だ。

 

現代のアメリカ、ニュージャージー州パターソンを舞台にしたフィクションだけれど、パターソンの生きる世界は時空を超えている。それは彼が詩人だからだ。パターソンの世界には、パターソン市のことを書いた詩集『パターソン』をものしたウィリアム・カーロス・ウィリアムズ(1883〜1963)がいて、パターソン出身の詩人、アレン・ギンズバーグ(1926〜1997)がいる。常連であるバーの主人が"Wall of Fame"と呼ぶパターソンゆかりの偉人たちを並べた壁に加わった“ゴッドファーザー・オブ・パンク”、イギー・ポップ(1947〜)がいる。

 

生前には数篇の詩を発表したに過ぎなかったエミリ・ディキンスン(1830〜1886)は、55年の生涯の大半を、マサチューセッツ州アマーストの生家で過ごした。にも関わらず、彼女の世界もまた、時空を超えていたと言わねばならない。なぜなら彼女また、詩人だからだ。しかも、おそらくは凡才かも知れないパターソンと違い、彼女は才能溢れる詩人だった。そのことは後世の名声が証明している。

 

『静かなる情熱 エミリ・ディキンスン』を観ていてもっとも強く感じたことは、極めてまっとうで常識的(と同時代的には思われているよう)な世界のなかで、極めてまっとうに、ということは極めて凡庸に日々を過ごし、人生を送るということと、文学史的にみて最高レベルの、突出した才能というものが両立するという事実だ。エミリ・ディキンスンにとっては、彼女の考える“神”の有り様と、牧師が、教会が、キリスト教という宗教が提示する神の有り様のギャップを生涯受け入れられなかったように、まっとうな世界は生き辛いものだった。しかし彼女は、厳粛な父によって象徴される、彼女にとっては理不尽ともいえるその世界の掟に対し、病を得て亡くなるまで、(少なくとも表面的には)決定的な反逆を起こすことはなかった。しかし、改めていうが、にも関わらず彼女の思索/詩作は同時代的にも文学史的にも唯一無二のものであって、だからこそ/にも関わらず普遍的なものとしてその後の人口に膾炙することとなった。

 

それだけで私たち、現代のエッジを生きる者にとっては福音である。何故ならいつの世も、“まっとう”に生きようとする者にとって、現代はクソだからだ。もちろんその“まっとう”とは、例えばエミリ・ディキンスンがそのなかで苦しんだ同時代の世間、世界の“まっとう”ではなくて、(いくらかはそれを含むとしても)彼女が信じていた、彼女自身が「ある」と信じていた世界の“まっとう”さであって、『パターソン』のなかでバス運転手のパターソンが、拙い技巧ながらも掴もうとしている世界/世界観のなかの“まっとう”さなのだ。もう一度いうが、私たち凡人は、詩人たちのそのような取り組み、戦い、企みの日々と歴史の一端を、こうした作品を通して知ることができるだけで、幸せだと思う。端的にいって、(極めて凡庸な言い方は承知のうえで)勇気が湧く。凡庸に生きることは、不幸であり、幸せだからだ。

 

 

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映画『パターソン』のこと(その2)――アダム・ドライバーのバス・ドライバーは、いつも身ぎれいにしている。

 

 

『パターソン』2回目。
『パターソン』を観ると、詩が書きたくなる。
(詩は書いたことがない。)
『パターソン』をみると、JJの他の映画を観返したくなる。
『パターソン』のパターソン、アダム・ドライバーのバス・ドライバーは、いつも身ぎれいにしている。
それが好ましい。
パターソンのカシオのアナログ・ウォッチ。
映画を観て、彼とおなじモノを欲しくなる気持ちはわからなくはない。
私も一瞬、そうおもったから。
でもそれはちょっと、しかし決定的に間違っている。
パターソンはたまたま、それを持っているのであり、しかもそれが唯一の選択肢なのだから。
わかるかい?
偶然であり、必然であるということ。
今日わかったのはそのことだった。そのことだけだった。
それがわかれば今日はじゅうぶん。
だから私はまた観たいし、また観るとおもう。

 

 

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映画『パターソン』のこと(その1)――ずっと聞いていたい人の話

 

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私(1978生まれ)が中高生の頃というと音楽や映画の趣味に対して背伸びするところがあって(誰もが、とは言わないけれど)、その勘所がわからなかったであろうジム・ジャームッシュ監督の映画はその頃から好きだと思っていた。たぶん初めて観たのは『ナイト・オン・ザ・プラネット』じゃないだろうか。

 

最近ようやく自分でも「映画好き」といってもいいくらい、日常的に映画を観るようになって、今回観た『パターソン』はやっぱり面白かった。15、6歳の頃観た『ナイト・オン・ザ・プラネット』も、20歳の頃観た『ストレンジャー・ザン・パラダイス』や『ミステリー・トレイン』も、当時から(実は)背伸びしていることを自分でも気づきながら観ていたのだと思うのだけれど、それでもやっぱり自分にはフィットしている映画だったのだ、と今回、改めて思った。

 

『パターソン』でまず、印象に残るのはアダム・ドライバー扮するパターソンに住むバスのドライバー、パターソン(本当にこれ、冗談みたいだ)のバスに乗り合わせた乗客たちの、(何ということはない)会話。ジャームッシュの映画のなかで私がいちばん好きなシークエンスは、『ストレンジャー・ザン・パラダイス』に出てくる“靴ひもの笑い話”のシークエンスで、本筋(といったって、そんなものは初めからないみたいなのだけど)とは一見関係のない乗客たちの会話を聞いていると、それを思い出してにやにやしてしまった。

 

しかし『パターソン』の人物たち、そして彼らの会話には、ひょっとするともっと密度があるのかもしれないとも思う。『ザンパラ』のジョン・ルーリーたちの会話は見るからに弛緩しているけれど、『パターソン』にはもっと緊張感があるような気もする。私が音楽、音響の雰囲気に引っ張られているのかな?

 

とにかく『パターソン』は大好きだ。もっとこの映画について考えたくなる、そんな映画。自分でも何度か観てから、識者たちの評論、クリティークにも当たってみたいな、と思うけれど、今は、自分なりに色々と考えてみるのが愉しい。

 

ちなみに『ストレンジャー・ザン・パラダイス』の“靴ひもの笑い話”はこんな感じ。私自身が以前書いていた「はてなダイアリー」より転載。たしかDVDの字幕から採録したんだと思う。 

 

ウィリーがいとこのエヴァに
ウィリー:
「ジョークを聞かせよう。三人の男が道を歩いていた。
一人が“靴ひもがほどけてる”
言われた奴が“分かってるよ”
違った、二人の男が道を歩いていた。
一人が“靴ひもがほどけてる”
言われた奴が“分かってるよ”
そこへ三人目の男がやってきて
“靴ひもが…”、“靴ひもが……”
その先は忘れた。
(一人で含み笑いを浮かべて)面白い話だ」
エヴァ:
「(笑いながら)でしょうね」 

 2008-11-12 - 日記オヤマァ

 

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【掌編】好きになるまでは呼び捨てなのに、顔見知りでもないミュージシャンでも、好きになったら「さん」付けしてしまうこと。

 

ピコン!

  お風呂から出て、片手鍋でビーカーと遮光瓶を煮沸した。アロマオイルをブレンドするのはいつも、遅番の日の夜だ。夜十時に仕事が終わった。帰ってきてヨーグルトを食べた。すべていつも通りだ。ヨーグルトには蜂蜜をかけた。大きな蜂蜜の瓶からスプーンですくい、ヨーグルトにかけようとしても、蜂蜜の粘り気でスプーンからなかなか落ちなかった。二、三度スプーンを振り、それでも落ちてこない分を口に含んだ。口のなかに蜂蜜の甘さが広がった。うん、これもいつも通りだ。


 お風呂から上がると十二時前で、両親はもう寝ていた。キッチンを気兼ねなく使うことができた。自分の部屋にテレビがないから、DVDで映画を観るのもこういう時間だ。両親が起きているあいだはテレビが点けっぱなしで、わたしが映画など観る隙間はないし、両親のいるところで嗚咽するほど泣いたり、心の底から笑ったり、甘酸っぱい恋愛を観てにやにやしたりできなかった。


 スマートフォンの動画配信で映画を観る気にはならない。スマートフォンにはお気に入りの映画が何本か入っているけれど、映画館やDVDで何度も観たものをDVDからリッピングしたもので、実際に観ることより、大好きな映画をいつでも持ち歩いていることの、お守りみたいな気持ちの方が強い。


 スマートフォンに入れているのは、アン・ハサウェイがファッション雑誌の編集者として奮闘する『プラダを着た悪魔』とか、ブラッドリー・クーパーとジェニファー・ローレンス、社会から落ちこぼれかけた二人が、社交ダンスによって文字通り世のなかとの、人との繋がりを取り戻す『世界にひとつのプレイブック』とか、病み上がりのマリオン・コティヤールが、自分が復職できるよう同僚を説得して回る『サンドラの週末』とか、どれも主人公が何かを乗り越える話だった。


 煮沸したお湯の残りを、シンクのなかに置いたガラス棒にこれも煮沸代わりにかけてから、ダイニングテーブルにお気に入りの手ぬぐいを広げた。九州に旅行したときに買ったものだ。白地に臙脂色で、各県の名物が図案化されたものが並んでいて、下にローマ字で説明書きがある。わたしが首に巻いていると、甥っ子のカズちゃんがいつも「見せてー」「読んでー」と言ってくれるものだ。


 手ぬぐいの上に遮光瓶とビーカーとガラス棒を並べて、食器棚の下の方、床の近くに入っているエッセンシャルオイルを取り出した。こういう「冷暗所に保管して下さい」というものは、どこに置いたらいいのか、といつも迷う。どこまでを冷暗所といえるのか。とりあえずエアコンの入っている時間の長いLDKの食器棚に入れている。


 冷蔵庫からグリセリンと精製水を取り出した。


 今日は化粧水を作るのだ。ビーカーにグリセリンを入れようとして気がついた。遮光瓶はマッサージオイル用で、化粧水に使っているのは百均で買ったプラスチックのスプレーボトルだった。プラスチックのボトルはそろそろ買い換えた方がいいかもしれないな、と思った。エッセンシャルオイルで溶けてしまうことがあるという。そういうのは目でわかりにくいから、ついついタイミングを逸してしまうが、こういうふうに思ったときに買い換えるようにしていた。


 自室からボトルを取ってきて、洗った。もう一度湯を沸かしているあいだに、スマートフォンからBluetoothスピーカーに飛ばして音楽をかけた。直後、スマートフォンにLINEのメールの着信音。後であとで。


 沸かしたお湯でボトルを洗い流して、よく拭いて、手ぬぐいの上へ。今度こそ、ビーカーにグリセリンを入れた。五ミリリットル。それからエッセンシャルオイルを垂らした。ユーカリラジアータを三滴、ティートゥリーを三滴。顔につける化粧水だから、エッセンシャルオイルの希釈率は一パーセントまで。エッセンシャルオイルの一滴は〇・〇五ミリリットル程度だ。スプレーボトルは三十ミリリットル。ガラス棒でよくかき混ぜて、精製水二十五ミリリットルを加えたあと、スプレーボトルに移した。LINEの着信が再び入った。後で、あとで。また言い聞かせた。着信の瞬間、ピコン! という着信音とともに、少し音楽のヴォリュームが下がり、しばらくしてまた音が戻ってきた。スピーカーからは市川愛さんの歌う、ジョン・デンバーの"Country Roads"が聴こえていた。好きになるまでは呼び捨てなのに、顔見知りでもないミュージシャンでも、好きになったら「さん」付けしてしまうことを、二年前に別れた恋人に突っ込まれたことを思い出した。何がいけないんだろう。バカみたい。化粧水を一度手首にスプレーして、匂いを嗅いだ。鼻先にスッとした香りが染み渡った、いい感じ。完成した化粧水のボトルを冷蔵庫に片付けていると、またLINEの着信が入った。思わずスマートフォンを手に取り、見た。キシモトさんだった。これからセルフマッサージをするつもりだったが、メールを読んで、返事を書いた。
(了)

 

【メモ】
私が以前書いた、100枚ほどの小説の部分なのですが、SSW、市川愛さんへのオマージュの掌編として読めると思い、このような形でアップしてみました。“Country Roads”は2013年発表の2ndソロアルバム、「Haven't we met」に収録。

 市川愛 / AI ICHIKAWA official web

 

Haven’t we met

Haven’t we met

 

 

MY LOVE,WITH MY SHORT HAIR

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はじめまして――このブログについて。

 

はじめまして。当ブログ、「sotowrite」を運営しています、ソトと申します。40歳。妻と、アンダーティーンのふたりの息子がいます。

 

メイン、というか別に、2017年7月より「ソトブログ」というブログを運営していて、こちら「sotowrite」は一応サブブログ、ということになります。

ソトブログ https://www.sotoblog.com/

「ソトブログ」の方はいわゆる雑記ブログですが、基本的には映画、本、音楽、自然観察、Chromebookなどなど、<何か、対象について書く>文章が主体になっていて、こちらでは創作(小説など)、純粋な雑文――妙な言い方ですが、そのようなものがあるとして、思いつき=「ソトブログ」や小説を書くにあたって思いついたことをノートの切れ端に書き込んで壁にピンで留めたようなもの、などを書こうと思っています。

 

たとえば上記の写真は、長年持ち腐れて手許に眠っていた、リコーGR1vというフィルムカメラで撮ったものですが、フィルムの装填時のミスで感光してしまっている(両端の赤みがそうです)のと、露出オーバーで白みが飛んでしまっています。全然「いい写真」ではありません。にもかかわらず、私にとっては大切な1枚のうちのひとつです。それが個人の経験とか記憶ということなのですが、文章を書くということ、そしてそれを読むということにおいては、(とくにクリエイティブライティングにおいては)そうした具体性、個別性がとても大切なキーになります。

 

 ――私は趣味で小説を書いているのですが、「書いているのですが」と言いつつここ2年ほど書けておらず、リハビリのようなつもりで始めたのが「ソトブログ」だったのです。しかしいざ自分でブログを始めてみると<ブログ>という世界のマナーが私が知っていたもの(というか、そう思い込んでいたもの)と随分変わっていて驚き、それとともにブログを書くことじたいが面白く、結局小説は書けないまま――現在に至っています。

 

そこでより小説を書くことに繋がるような文章を書こうと思ってこのブログを始めるわけですが、そう書くと、「そんなことより小説を書けよ」というツッコミが入りそうです。もちろんその通りなのですが、私の場合、何かネタを思いついてそれをフィクションとして組み立てていく、というより書くことを通じて、<書きながら考える何か>の方が関心があるので、そういう書き方をしていると、何か気持ちや出来事のフックがないと、なかなか書き始められないところがあって、このところ、上記の「ソトブログ」にかかりきりだったために、そういうものが生まれてこなかったのか、見過ごしてしまっていたのか。

 

ちょうど手許に、キングジムのポメラDM200という、ネットに繋がらない、テキスト執筆に特化した機器がありますので、こちらの文章は、できるかぎりそのポメラを使って書いていきたいと思います。