映画『パターソン』のこと(その2)――アダム・ドライバーのバス・ドライバーは、いつも身ぎれいにしている。
『パターソン』のパターソン、アダム・ドライバーのバス・ドライバーは、いつも身ぎれいにしている。それが好ましい。パターソンのカシオのアナログ・ウォッチ。同じモノを欲しくなる気持ちはわからなくはない。でも、彼はたまたまそれを持っているのであり、しかもそれが彼の唯一の選択肢なのだ。
— TSUMORI, Soto(ソト) (@t_soto) 2018年7月19日
『パターソン』2回目。
『パターソン』を観ると、詩が書きたくなる。
(詩は書いたことがない。)
『パターソン』をみると、JJの他の映画を観返したくなる。
『パターソン』のパターソン、アダム・ドライバーのバス・ドライバーは、いつも身ぎれいにしている。
それが好ましい。
パターソンのカシオのアナログ・ウォッチ。
映画を観て、彼とおなじモノを欲しくなる気持ちはわからなくはない。
私も一瞬、そうおもったから。
でもそれはちょっと、しかし決定的に間違っている。
パターソンはたまたま、それを持っているのであり、しかもそれが唯一の選択肢なのだから。
わかるかい?
偶然であり、必然であるということ。
今日わかったのはそのことだった。そのことだけだった。
それがわかれば今日はじゅうぶん。
だから私はまた観たいし、また観るとおもう。