映画『パターソン』のこと(その3)――『パターソン』と『静かなる情熱 エミリ・ディキンスン』あるいは、凡庸に生きる<不幸>と<幸せ>。

 

『パターソン』を観た流れで、『静かなる情熱 エミリ・ディキンスン』(2016)を観た。

 

『パターソン』でパターソンが出会う、双子の片割れの詩を書く女の子。彼女の敬愛する詩人がエミリ・ディキンスンなのだ。『パターソン』という映画は、バス運転手であるパターソンが、決まった時間に起きて仕事に通い、休み時間に詩を書いて、美しい妻の誂える変わった料理を食し、犬の散歩をしていつものバーで飲んで帰る、文字通り“判で押したよう”な一週間を描く映画だ。

 

現代のアメリカ、ニュージャージー州パターソンを舞台にしたフィクションだけれど、パターソンの生きる世界は時空を超えている。それは彼が詩人だからだ。パターソンの世界には、パターソン市のことを書いた詩集『パターソン』をものしたウィリアム・カーロス・ウィリアムズ(1883〜1963)がいて、パターソン出身の詩人、アレン・ギンズバーグ(1926〜1997)がいる。常連であるバーの主人が"Wall of Fame"と呼ぶパターソンゆかりの偉人たちを並べた壁に加わった“ゴッドファーザー・オブ・パンク”、イギー・ポップ(1947〜)がいる。

 

生前には数篇の詩を発表したに過ぎなかったエミリ・ディキンスン(1830〜1886)は、55年の生涯の大半を、マサチューセッツ州アマーストの生家で過ごした。にも関わらず、彼女の世界もまた、時空を超えていたと言わねばならない。なぜなら彼女また、詩人だからだ。しかも、おそらくは凡才かも知れないパターソンと違い、彼女は才能溢れる詩人だった。そのことは後世の名声が証明している。

 

『静かなる情熱 エミリ・ディキンスン』を観ていてもっとも強く感じたことは、極めてまっとうで常識的(と同時代的には思われているよう)な世界のなかで、極めてまっとうに、ということは極めて凡庸に日々を過ごし、人生を送るということと、文学史的にみて最高レベルの、突出した才能というものが両立するという事実だ。エミリ・ディキンスンにとっては、彼女の考える“神”の有り様と、牧師が、教会が、キリスト教という宗教が提示する神の有り様のギャップを生涯受け入れられなかったように、まっとうな世界は生き辛いものだった。しかし彼女は、厳粛な父によって象徴される、彼女にとっては理不尽ともいえるその世界の掟に対し、病を得て亡くなるまで、(少なくとも表面的には)決定的な反逆を起こすことはなかった。しかし、改めていうが、にも関わらず彼女の思索/詩作は同時代的にも文学史的にも唯一無二のものであって、だからこそ/にも関わらず普遍的なものとしてその後の人口に膾炙することとなった。

 

それだけで私たち、現代のエッジを生きる者にとっては福音である。何故ならいつの世も、“まっとう”に生きようとする者にとって、現代はクソだからだ。もちろんその“まっとう”とは、例えばエミリ・ディキンスンがそのなかで苦しんだ同時代の世間、世界の“まっとう”ではなくて、(いくらかはそれを含むとしても)彼女が信じていた、彼女自身が「ある」と信じていた世界の“まっとう”さであって、『パターソン』のなかでバス運転手のパターソンが、拙い技巧ながらも掴もうとしている世界/世界観のなかの“まっとう”さなのだ。もう一度いうが、私たち凡人は、詩人たちのそのような取り組み、戦い、企みの日々と歴史の一端を、こうした作品を通して知ることができるだけで、幸せだと思う。端的にいって、(極めて凡庸な言い方は承知のうえで)勇気が湧く。凡庸に生きることは、不幸であり、幸せだからだ。

 

 

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