ただ書いていたいから。ただ読んでみたいから。

 

何か対象について、腰をすえて書くのではなく、ただ、書きたいから、指を動かしてキーボードを叩いていたいから、という理由でこのサブブログを始めてみたものの、――メインのブログを1年続けたせいなのか、読む方でもそういう文章ばかり享受してしまっているからなのか、自分でも気がつかないうちに、「対象について」書く、ということにすっかり慣れてしまっていて、結局こちらの、キラクに書くはずのブログ「sotowrite」のほうこそ書けずに1ヶ月放置してしまうことになってしまいました。

 

――そんな折、ひさしぶりの友人からメール(LINE)が来たので少しのやりとりのなかで、自分でも思いもよらず書いた以下のテキスト――、

 

(以下の引用はわたしが表紙デザインを担当させてもらった、『アカウントを持って街へ出よう Chromebookとの365日』という電子書籍と、それを書かれた鈴木章史さんについて、友人がおそらくコンピュータにもChromebookにも関心がないだろうことを知りつつ、私が紹介したところ、何故か彼女が興味を持ってくれて、読んでくれるというので、こちらとしてもちょっとエモくなってしまって書いた文面です。)

 

ふつうのコンピュータやガジェットのオタク、ギーク的な人のそれと違って、鈴木さんの文章からは、すごく個人的なエモーションを感じるんですよ。文学的な細部とか、感情のひだというかね。だから結局、僕がこれまで好きなものとおんなじなんですけど。

 

✕✕さんがプリミ恥部さんから受け取っているものもそういうものなのかな、と勝手に思ったりしました。デプレシャンの映画(※友人の大好きな、そして教えてもらって観た私も好きな映画監督、アルノー・デプレシャン)でもそうで、内心と行動がずれていたり、当然描かれていそうなことが描かれていなくて、はたから見ればくだらないことに拘泥していたり、そういうものにこだわって表現するのでなければ、個人が個人として言葉をつむいだり、発信したりする意味はないんじゃないかな、といつも思っているので、自分の文章がそうなっているかはともかく、そういうものを読んだり、観たり、聴いたり、体験したりしたいですよね。

 

「何故か興味を持ってくれて」とわたしは書きましたが、彼女がそういうふうに思考するかもしれないことはこれまでの付き合いから期待はしていたのです。けれどそういうふうな関心の持ち方があるということは、あまり巷間でひろく語られることはありません。そしてわたしはこの文章でも、ちょっとまとめすぎというか、自分の納得できうる思考の型にはめてしまっている気がするのだけれど、でもだいたいいつもこんなことを考えています。

 

アカウントを持って街へ出よう Chromebookとの365日

アカウントを持って街へ出よう Chromebookとの365日

 

 

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