手書きで文章を書く面白さは、頭のなかで考えていることに、書く速さが追いつかないことにある。

 

手書きで文章を書く面白さは、頭のなかで考えていることに、書く速さが追いつかないことにある。だからキーボードで文字を叩くときとは、書く文章の質が変わってくる。考えている量よりも、書かれるテキストの量はぐんと少なくなる。

 

――ということはつまり、テキストの密度は高くなる? 実は逆で、目が粗くなる。だからいいのだ。今のところは精緻なコトバで説明できないけれど。ちなみにこうして手書きで書くときに、センテンスの先がどうなるか考えるまえに、一定の速度で手を動かしつづけるという方法もある。そうすることで手よりも速く回転していたハズのいつのまにか手の動きよりも遅れて出てくる感覚が味わえる。そのときに訪れるある種の快感が私は好きだ。

 

そんなことを、私はこうして書くまで考えなかった。

 

ぺんてる サインペン 5本パック XS520AD5 黒

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 最近あらためて好きになった、ぺんてるのサインペン。

読んでいるのは私なのに、私ひとりなのに、だれに、というのではなく、言い訳したい気持ちになった。

 

読みかけの本を開く、とりわけ久しぶり、数ヶ月ぶりにまた読み始める、というときに、私はいつだって、そこまで読んだ話を、登場人物を、彼ら彼女らの行動、その足跡を、つまりはあらすじを忘れているのだけれど、忘れているのはディテールであって、実はやっぱり「あらすじ」ではない。

 

読みさしの本を、そうやって忘れてしまっている本の続きを読むときの習い性で、今も私はそう思った。

 

とりわけめくるめく話の主体の入れ替わる群像劇で、そこまでのテキストを忘却してしまっていては、今読んでいる箇所の理解も追いつかない。でもガマンして――そう、読書にはガマンが大切なのだ――読み進めていると、ゴホウビのように感動が、エモーションが訪れる。

 

エモーショナルな話なのではない。そんな小説が好きなんじゃない。

 

読んでいるのは私なのに、私ひとりなのに、だれに、というのではなく、言い訳したい気持ちになった。この本を書いた小説家に、もしかしたらこの本自体にかも。

 

問いのない答え (文春文庫)

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ただ書いていたいから。ただ読んでみたいから。

 

何か対象について、腰をすえて書くのではなく、ただ、書きたいから、指を動かしてキーボードを叩いていたいから、という理由でこのサブブログを始めてみたものの、――メインのブログを1年続けたせいなのか、読む方でもそういう文章ばかり享受してしまっているからなのか、自分でも気がつかないうちに、「対象について」書く、ということにすっかり慣れてしまっていて、結局こちらの、キラクに書くはずのブログ「sotowrite」のほうこそ書けずに1ヶ月放置してしまうことになってしまいました。

 

――そんな折、ひさしぶりの友人からメール(LINE)が来たので少しのやりとりのなかで、自分でも思いもよらず書いた以下のテキスト――、

 

(以下の引用はわたしが表紙デザインを担当させてもらった、『アカウントを持って街へ出よう Chromebookとの365日』という電子書籍と、それを書かれた鈴木章史さんについて、友人がおそらくコンピュータにもChromebookにも関心がないだろうことを知りつつ、私が紹介したところ、何故か彼女が興味を持ってくれて、読んでくれるというので、こちらとしてもちょっとエモくなってしまって書いた文面です。)

 

ふつうのコンピュータやガジェットのオタク、ギーク的な人のそれと違って、鈴木さんの文章からは、すごく個人的なエモーションを感じるんですよ。文学的な細部とか、感情のひだというかね。だから結局、僕がこれまで好きなものとおんなじなんですけど。

 

✕✕さんがプリミ恥部さんから受け取っているものもそういうものなのかな、と勝手に思ったりしました。デプレシャンの映画(※友人の大好きな、そして教えてもらって観た私も好きな映画監督、アルノー・デプレシャン)でもそうで、内心と行動がずれていたり、当然描かれていそうなことが描かれていなくて、はたから見ればくだらないことに拘泥していたり、そういうものにこだわって表現するのでなければ、個人が個人として言葉をつむいだり、発信したりする意味はないんじゃないかな、といつも思っているので、自分の文章がそうなっているかはともかく、そういうものを読んだり、観たり、聴いたり、体験したりしたいですよね。

 

「何故か興味を持ってくれて」とわたしは書きましたが、彼女がそういうふうに思考するかもしれないことはこれまでの付き合いから期待はしていたのです。けれどそういうふうな関心の持ち方があるということは、あまり巷間でひろく語られることはありません。そしてわたしはこの文章でも、ちょっとまとめすぎというか、自分の納得できうる思考の型にはめてしまっている気がするのだけれど、でもだいたいいつもこんなことを考えています。

 

アカウントを持って街へ出よう Chromebookとの365日

アカウントを持って街へ出よう Chromebookとの365日

 

 

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わたしにとっての「不可能作戦」――『ミッション:インポッシブル/フォールアウト』のこと。

 

『ミッション:インポッシブル』シリーズの、イーサン・ハント(トム・クルーズ)にミッションが伝えられるシーンが苦手だ。


嫌いなのではない。頭に入ってこないのだ。


『ミッション:インポッシブル』では、毎度、さまざまな趣向を凝らしたガジェットを通してミッションが伝えられるけれど、それがあまりに興味深いので、その視覚的な面白さに目がいってしまって、耳の方がおろそかになる。
それでなくてもこの場面は、ミッションが言葉で伝えられるだけだから、英語のリスニング能力のないわたしにここで課されているのは「映画を観る」ことではなくて「字幕を読むこと」なのだ。
しかし映画の方は、ここがそういう「説明のための説明」の場面であることを承知しているから、ガジェットのギミックでわたしたち観客の気を惹こうとする。


つまり、端から無理筋なのだ、わたしが一発で『ミッション:インポッシブル』のミッションを理解するのは。


自宅でDVDや動画配信で観ているときはまだいい。うっかり画面に見とれてレコード・プレイヤーやホログラム、公衆電話やテープレコーダー(※この例そのものもうろ覚え)といった、様々な方法で凄腕エージェント、イーサン・ハントに伝えられる作戦の内容を把握できなくても、何回も巻き戻して読み返すことができる。劇場となるとそうはいかない。しかし、ここを逃すと先のストーリーの理解に影響するのだ。
ということはわかっていたはずだけれど、やっぱり今回もわたしは迂闊だった。


だからわたしがどんなに偉そうに、気の利いたことを書いているように見えたとしても、わたしはそもそも、イーサン・ハントに伝えられたミッションを、なんとなくしか理解していないのだった。

 

(と、偉そうに書くことではありませんね。)

 

そんなわたしが書いた、『ミッション:インポッシブル/フォールアウト』の感想がこちらです。

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映画『パターソン』のこと(その4)――チャーミングな妻ローラ、そして世界

 

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映画レビューを定期的に書いているもうひとつのブログ「ソトブログ」の方で、上記のとおりある程度まとまった文章を書いたので、もう『パターソン』についてはいいだろう? と自分でも思わなくもないけれど、少し書き足りない、言い落としたという気持ちがなくはない。それだけ汲めども尽きぬ魅力がある作品ではある。

 

と同時に、私の書き方の問題でもある。「ソトブログ」で書いている映画レビューは、書くからには「読まれたい」という、若干の射幸心(それ自体がいけないことだとは思っていない)から、便宜的に一般的に、映画「レビュー」としているけれど、書いているときの気持ちというかつもりとしては、「その映画について考えたことと」「その映画をきっかけにして考えたこと」を、できるだけクリアカットに分けることなく、そして論理的に整理せずに、書こうと思っている。もとともと論理的に書く知識も技量もないことはもちろんだけれど、映画に限らず作品に接するときに、自分の手持ちのカードで整理、説明し尽くしてしまったら、その作品から得るものが、結局それを観ている私のサイズを超えるものではなくなってしまう。そんなにつまらないことはない。

 

一般的に、難しいことをわかり易く、わかり易いことはもっとわかり易く、――そんなふうに伝えることが「良いこと」だと思われているけれど、作品を享受することによってクリアにならない「引っかかり」が受け手のなかに生まれること、何かわからないものを考え続けてしまうこと、ほど豊かなことはない。今ふうに「コスパが良い」とさえ言えると思う。

 

『パターソン』のなかでは、身ぎれいにしていて自分なりのこだわりもあるのだろうけど、コンサバというより地味な装いをして、詩作についてもテクニックや修辞的に衒うところのない作風のパターソンに対して、イラン人女優ゴルシフテ・ファラハニが演じる妻・ローラは、独特のセンスの持ち主だ。壁紙やカーテンなどのインテリアから衣服、あるいは通販で購入したギターまでもモノトーンの幾何学模様で統一したり、変わった食材を使った「秘密のディナーパイ」(パターソンが水をがぶ飲みしながらそれを食すシーンの可笑しみ!)やこちらもモノトーンのカップケーキなど。そして前述の通販で買った、有名ミュージシャンモデルのアコースティックギターで「線路はつづくよどこまでも」をたどたどしく歌う彼女は「カントリー歌手」になりたいのだという。

 

ひょっとすると最近はそうでもないのかもしれないが、カントリー・ミュージックというとアメリカ南部、ワーキングクラスの白人のための音楽であって、ファッションも出自もローラに似つかわしいものとは言えない。ローラという女性は、あらゆる点でそうした文化的なコンテクストを踏み外した人物であって、見方によっては「困った人」としても描かれうるタイプだが、『パターソン』においてはそれは、彼女にとっての、そしてパターソンにとっての「チャーミングさ」の範疇に留まっている。否、というよりそのような彼女の常識に囚われない、しかし幾分紋切り型でわかりやすい「個性」(彼女は通販番組で見た有名ミュージシャンが、自らギターを販売しているとさえ思っているふしがある)こそが、おそらくは自らは起伏を好まないパターソンの日常を彩っている。

 

あるいは彼女は、セルアウトを恐れる芸術家肌のパターソンを、「崇高な芸術」に浮き足立たせることなく、日常の美しさ、愉しさに留まらせてくれる、市井の詩人=何者でもない者であるパターソンにとっての、理想の伴侶なのかも。

 

そういうふうに見るとこのパターソンの妻のローラという女性は、理想化された人物に見える。そう見えると、一見地味なリアリズムに見えるこの映画の世界は、偶然とはいえない頻度で出てくる双子たちの例を出すまでもなく、パターソンや、パターソンが憧れる詩人たちの書く詩のような、現実を再構築して美しく組み上げたひとつの芸術作品のようだ。そしてそれこそが、現実の人物と風景(メイクを施していたりセットとして組み上げられたとしても、そこに実在するもの)を撮影して撮られたものとしての、映画そのものだということだろう。

 

 

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映画『パターソン』のこと(その3)――『パターソン』と『静かなる情熱 エミリ・ディキンスン』あるいは、凡庸に生きる<不幸>と<幸せ>。

 

『パターソン』を観た流れで、『静かなる情熱 エミリ・ディキンスン』(2016)を観た。

 

『パターソン』でパターソンが出会う、双子の片割れの詩を書く女の子。彼女の敬愛する詩人がエミリ・ディキンスンなのだ。『パターソン』という映画は、バス運転手であるパターソンが、決まった時間に起きて仕事に通い、休み時間に詩を書いて、美しい妻の誂える変わった料理を食し、犬の散歩をしていつものバーで飲んで帰る、文字通り“判で押したよう”な一週間を描く映画だ。

 

現代のアメリカ、ニュージャージー州パターソンを舞台にしたフィクションだけれど、パターソンの生きる世界は時空を超えている。それは彼が詩人だからだ。パターソンの世界には、パターソン市のことを書いた詩集『パターソン』をものしたウィリアム・カーロス・ウィリアムズ(1883〜1963)がいて、パターソン出身の詩人、アレン・ギンズバーグ(1926〜1997)がいる。常連であるバーの主人が"Wall of Fame"と呼ぶパターソンゆかりの偉人たちを並べた壁に加わった“ゴッドファーザー・オブ・パンク”、イギー・ポップ(1947〜)がいる。

 

生前には数篇の詩を発表したに過ぎなかったエミリ・ディキンスン(1830〜1886)は、55年の生涯の大半を、マサチューセッツ州アマーストの生家で過ごした。にも関わらず、彼女の世界もまた、時空を超えていたと言わねばならない。なぜなら彼女また、詩人だからだ。しかも、おそらくは凡才かも知れないパターソンと違い、彼女は才能溢れる詩人だった。そのことは後世の名声が証明している。

 

『静かなる情熱 エミリ・ディキンスン』を観ていてもっとも強く感じたことは、極めてまっとうで常識的(と同時代的には思われているよう)な世界のなかで、極めてまっとうに、ということは極めて凡庸に日々を過ごし、人生を送るということと、文学史的にみて最高レベルの、突出した才能というものが両立するという事実だ。エミリ・ディキンスンにとっては、彼女の考える“神”の有り様と、牧師が、教会が、キリスト教という宗教が提示する神の有り様のギャップを生涯受け入れられなかったように、まっとうな世界は生き辛いものだった。しかし彼女は、厳粛な父によって象徴される、彼女にとっては理不尽ともいえるその世界の掟に対し、病を得て亡くなるまで、(少なくとも表面的には)決定的な反逆を起こすことはなかった。しかし、改めていうが、にも関わらず彼女の思索/詩作は同時代的にも文学史的にも唯一無二のものであって、だからこそ/にも関わらず普遍的なものとしてその後の人口に膾炙することとなった。

 

それだけで私たち、現代のエッジを生きる者にとっては福音である。何故ならいつの世も、“まっとう”に生きようとする者にとって、現代はクソだからだ。もちろんその“まっとう”とは、例えばエミリ・ディキンスンがそのなかで苦しんだ同時代の世間、世界の“まっとう”ではなくて、(いくらかはそれを含むとしても)彼女が信じていた、彼女自身が「ある」と信じていた世界の“まっとう”さであって、『パターソン』のなかでバス運転手のパターソンが、拙い技巧ながらも掴もうとしている世界/世界観のなかの“まっとう”さなのだ。もう一度いうが、私たち凡人は、詩人たちのそのような取り組み、戦い、企みの日々と歴史の一端を、こうした作品を通して知ることができるだけで、幸せだと思う。端的にいって、(極めて凡庸な言い方は承知のうえで)勇気が湧く。凡庸に生きることは、不幸であり、幸せだからだ。

 

 

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映画『パターソン』のこと(その2)――アダム・ドライバーのバス・ドライバーは、いつも身ぎれいにしている。

 

 

『パターソン』2回目。
『パターソン』を観ると、詩が書きたくなる。
(詩は書いたことがない。)
『パターソン』をみると、JJの他の映画を観返したくなる。
『パターソン』のパターソン、アダム・ドライバーのバス・ドライバーは、いつも身ぎれいにしている。
それが好ましい。
パターソンのカシオのアナログ・ウォッチ。
映画を観て、彼とおなじモノを欲しくなる気持ちはわからなくはない。
私も一瞬、そうおもったから。
でもそれはちょっと、しかし決定的に間違っている。
パターソンはたまたま、それを持っているのであり、しかもそれが唯一の選択肢なのだから。
わかるかい?
偶然であり、必然であるということ。
今日わかったのはそのことだった。そのことだけだった。
それがわかれば今日はじゅうぶん。
だから私はまた観たいし、また観るとおもう。

 

 

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映画『パターソン』のこと(その1)――ずっと聞いていたい人の話

 

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私(1978生まれ)が中高生の頃というと音楽や映画の趣味に対して背伸びするところがあって(誰もが、とは言わないけれど)、その勘所がわからなかったであろうジム・ジャームッシュ監督の映画はその頃から好きだと思っていた。たぶん初めて観たのは『ナイト・オン・ザ・プラネット』じゃないだろうか。

 

最近ようやく自分でも「映画好き」といってもいいくらい、日常的に映画を観るようになって、今回観た『パターソン』はやっぱり面白かった。15、6歳の頃観た『ナイト・オン・ザ・プラネット』も、20歳の頃観た『ストレンジャー・ザン・パラダイス』や『ミステリー・トレイン』も、当時から(実は)背伸びしていることを自分でも気づきながら観ていたのだと思うのだけれど、それでもやっぱり自分にはフィットしている映画だったのだ、と今回、改めて思った。

 

『パターソン』でまず、印象に残るのはアダム・ドライバー扮するパターソンに住むバスのドライバー、パターソン(本当にこれ、冗談みたいだ)のバスに乗り合わせた乗客たちの、(何ということはない)会話。ジャームッシュの映画のなかで私がいちばん好きなシークエンスは、『ストレンジャー・ザン・パラダイス』に出てくる“靴ひもの笑い話”のシークエンスで、本筋(といったって、そんなものは初めからないみたいなのだけど)とは一見関係のない乗客たちの会話を聞いていると、それを思い出してにやにやしてしまった。

 

しかし『パターソン』の人物たち、そして彼らの会話には、ひょっとするともっと密度があるのかもしれないとも思う。『ザンパラ』のジョン・ルーリーたちの会話は見るからに弛緩しているけれど、『パターソン』にはもっと緊張感があるような気もする。私が音楽、音響の雰囲気に引っ張られているのかな?

 

とにかく『パターソン』は大好きだ。もっとこの映画について考えたくなる、そんな映画。自分でも何度か観てから、識者たちの評論、クリティークにも当たってみたいな、と思うけれど、今は、自分なりに色々と考えてみるのが愉しい。

 

ちなみに『ストレンジャー・ザン・パラダイス』の“靴ひもの笑い話”はこんな感じ。私自身が以前書いていた「はてなダイアリー」より転載。たしかDVDの字幕から採録したんだと思う。 

 

ウィリーがいとこのエヴァに
ウィリー:
「ジョークを聞かせよう。三人の男が道を歩いていた。
一人が“靴ひもがほどけてる”
言われた奴が“分かってるよ”
違った、二人の男が道を歩いていた。
一人が“靴ひもがほどけてる”
言われた奴が“分かってるよ”
そこへ三人目の男がやってきて
“靴ひもが…”、“靴ひもが……”
その先は忘れた。
(一人で含み笑いを浮かべて)面白い話だ」
エヴァ:
「(笑いながら)でしょうね」 

 2008-11-12 - 日記オヤマァ

 

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